☝それぞれのテーブル / 紅とんぼ
【それぞれのテーブル】
ちあきなおみは、昭和55年以降、シャンソン、ジャズ、ファドに深く
興味を持ち、洋楽のカバーアルバムを何枚も発表しています。
日本の歌謡曲や演歌を日本レコード大賞受賞歌手であるちあきなおみが歌えば、
大ヒットすることは間違いないということがわかりながら、
なぜそうしたのでしょうか。
■ 自分が本当に歌いたい曲をアルバムで発表していく・・
この頃のちあきなおみは中島みゆきの「ルージュ」、河島英五の「あまぐも」
などという、当時の最先端であったニューミュージック界の
シンガーソングライター達に楽曲提供を受けシングル曲を立て続けに発表しました。
しかし時代に合ってるようでいて、ちあきなおみが歌うニューミュージックは
その時代には溶け込むことができず、どの曲もヒットせずに終わっています。
歌手としての自我に目覚めたはずのちあきなおみは、
「自分が歌いたい歌は世の中に迎えられない・・・」
そんな思いにかられていたのではないでしょうか。
またこの時期レコード会社サイドは、何故売上が確実に見込める演歌を歌わないのか?
また、郷鍈治(宍戸鍈治)との結婚に対しても何故事前に相談がないのかと、
ちあきなおみに対して色んな軋轢をかけてきます。
今の時代では考えられないですが、特に芸能人の結婚に対しての芸能界の慣習は
凄まじいものがあったのでしょう。
またこの時期は、後に語っていた「人間不信」のピークだったのかもしれません。
ちあきなおみはコロンビアとの契約解除、休業という選択をしました。
それから約3年の間、ステージで歌うちあきなおみの姿がプツッと
糸が切れたように見れなくなりました。
しかし、レコード会社はコロンビアだけではないのは当然で、
CBSソニー、ビクターが、放っておくはずがありません。
CBSソニーで作る、映画「象物語」の主題歌をぜひとも歌ってほしいとの
オファーには「シングルカットはしない」という条件のもと引き受けることにしました。
また、レコード会社が歌手にヒット曲を仕掛け、そこからアルバムを発表するという
従来の歌謡界の常識とは真逆に、休業中のちあきなおみは1年に1回という
ペースでアルバムを製作します。
シャンソンの曲を歌った「それぞれのテーブル」、
「THREE HUNDREDS CLUB」というジャズを歌ったもの、
ポルトガル民謡・ファドを歌った「待夢」、
日本の名曲を集めた「港が見える丘」がそうです。
「自分が歌いたい歌を商業ベースにしない、いい曲をアルバムで発表していく・・」
というその頃のちあきなおみのポリシーによって4枚それぞれ違う
ジャンルのアルバムという宝物を残してくれました。
また歌手として純粋なその姿は潔くて美しく、今現在においても人々の
心を捉えて魅了し、決して過去の人とはなっていない理由の
一つになっているのでないでしょうか。
【紅とんぼ】
■ シャンソンのような演歌をうたう
休業宣言をしてから約10年間、アルバムを発表しても決して
表舞台に立つことはなかったちあきなおみが歌謡界に
完全復活する気になったひとつの理由は、
「喝采」以来長年信頼を寄せてきた担当ディレクターである
東元晃氏がテイチクレコードの社長に就任した事が大きかったのではないかと思います。
ちあきなおみの歌手としての舞台はテイチクになり、
嫌な人間関係のしがらみからの解放、
何より今は自分の後ろにいつも守ってくれる最愛の夫がいる・・・
このような環境の中で、水を得た魚のようにみずみずしく蘇ったちあきなおみは、
復帰したその年だけで2枚のシングル、3枚のアルバムを発表するという、
今までのスローペースではありえなかったペースで、
のびのびと、精力的に活動していきました。
その中でもコロンビア時代最後に発表した「矢切の渡し」以来
演歌を封印していたちあきなおみは船村徹氏と組んだ「紅とんぼ」
で久々にヒットし、11年ぶりに紅白に復帰します。
船村氏は、まだ20代だった「さだめ川」を歌った時より、40代を迎えた
ちあきなおみの歌声は深みを増し、人生を重ねてきた彼女だからこその
表現力に改めて驚き、この曲を「シャンソンのような演歌」の
イメージで作曲したといいます。
「話し言葉のような詞を書いて欲しい」という
ちあきなおみのリクエストで、
長年のパートナーである作詞家・吉田旺氏は
「新宿駅裏の紅とんぼという飲み屋の店仕舞」
というテーマで詞を付けました。
船村氏は度々ちあきなおみの歌声を「曲の表面だけではなく、裏側まで歌える人」
「こういう表現力で歌える歌手はひばり亡き今、彼女しかいない」と讃えています。