昭和43年「新宿の女」で歌手デビュー。その後立て続けに「女のブルース」・「圭子の夢は夜ひらく」と大ヒットを連発し、その美貌とは裏腹にハスキーボイスの効いたその歌声と夜の世界を陰鬱に歌い告ぐ独特な世界観が当時の社会に衝撃を与えるほどのセンセーショナルなデビューでした。
その後、喉のポリープの手術を行い、思うように歌えなくなったことを悔やみ昭和53年に引退。一度は芸能界の復帰も行ってはいるが直に引退し宇多田照實と結婚、渡米することとなる。
歌手 宇多田ヒカルの母親としても有名。
作詞 石坂まさを
作曲 曽根幸明
昭和45年、もともと園まりのヒット曲「夢は夜ひらく」の歌詞だけ変えたカバー曲として発表されました。
この「夢は夜ひらく」という曲は、色んな歌手の色んなヴァージョンが「〇〇の夢は夜ひらく」という題名で存在します。
ですが、藤圭子盤「圭子の夢は夜ひらく」は通算120万枚を売り上げる大ヒットとなりました。前曲の「女のブルース」、「圭子の夢は夜ひらく」と2曲以上でのオリコン18週間連続1位という記録は未だ破られていないといいます。
また、ファーストアルバムである「新宿の女」は20週連続の1位、セカンドアルバムの「女のブルース」は17週連続1位、発表したアルバムが37週連続1位という、前人未踏のとんでもない大記録を残しました。
小学5年生から歌い始め、中学生の頃には一家の生計を支えていき、錦糸町や浅草で流しをしていた、ストリート出身であった藤圭子。彼女のマイクなどに頼ることのないドスの効いた声量、怨念のこもった詞の強烈さ、特に「昨日マー坊 今日トミー 明日はジョージか ケン坊か」といった彼女自身によるものだという3番のフレーズを色白で真っ直ぐな黒髪、目鼻立ちのはっきりとした19歳の光り輝くような美女が「サラっと」歌う姿は当時さぞ新鮮で衝撃的だったことでしょう。
今は亡き藤圭子ですが、昭和歌謡界にとっての彼女の存在はとても大きく、昭和にとどまらず平成でも、あの「宇多田ヒカル」を世に送り出したという意味での貢献度は本当に大きかったのではないでしょうか。「不幸な死」はとても残念でやるせなく、65歳、70歳になった時の藤圭子の演歌が聴いてみたかったと無性に思います。ですが、「藤圭子」という人はいなくなってしまったけれどこの「圭子の夢は夜ひらく」をはじめ、彼女の残した名曲の数々はいつまでも心に響き続けることでしょう。
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